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ラストラボコラム

2017/10/30 [コラム]

靴造りの天才、フェラガモの歩んできた歴史


 

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画像出典:(C)Robert Sheie

 

トータルファッションブランドとして、世界中の紳士淑女を虜にする「フェラガモ」。

中でもフェラガモのシューズは、創業以来から変わらず、私達の目をくぎ付けにするほどの魅力を持ちます。

 

そんな魅力的なフェラガモシューズは、数々の歴史を重ね今に至ります。

では、どのような歴史を辿って来たのか?今回は1つ1つ詳しく解説していきます。

 

 

 

●サルヴァトーレ・フェラガモは神童?!幼少期に魅せた靴造り


 

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フェラガモの創業者「サルヴァトーレ・フェラガモ」は、幼少期の頃から靴造りを始めていました

 

初めての靴造りは9歳の頃です。

9歳の子供が靴造りと聞くと、紙工作や簡単な模型などを想像しますが、そんなものではありません。

なんと彼は、9歳にして誰もが認める靴を作り上げたのです。

 

初めての作品は妹のための靴でしたが、見事な仕上がりで多くの人を驚かせました。

彼は妹の靴造りでますます靴造りに没頭するようになり、とうとう向かいの靴屋に入り込み修行を始めたのです。

そして、12歳に達する前に、誰の手を借りず、1人で子供~大人の靴を作り上げる技術を身に着けました。

 

 

 

●フェラガモ少年、12歳で店を構える!


 

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サルヴァトーレ・フェラガモ少年は、兄や友人の勧めもあり、故郷から離れナポリの有名靴店で修行に励みました。

 

ですがここでも、彼は靴造りの才能を発揮するのです。

なんと、わずか2週間で有名靴店の技術を習得しました。

そして「ここで学ぶ事はない」と感じた彼は、2週間で有名靴店に別れを告げました。

 

故郷に戻った彼は、今まで習得した技術を活かし12歳で自分の靴屋をオープンしました。

オープンすると彼が作った靴は、今まで見たことがない美しいデザインに通りゆく人々を魅了していきました。

そして次第に、イタリア中で話題になり、フェラガモ少年の靴はイタリアのファッション業界に衝撃を与えたのです。

 

 

 

●サルヴァトーレ・フェラガモ 海を渡りアメリカの大地に立つ!


 

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彼が経営する靴屋は、順風満帆であり、ひっきりなしにお客様が来ては購入していきました。

 

しかし、ここで彼は手作業による限界を感じ始め、たとえ多くのお客様が来ても、応えられない現状に悩んでいました。

そこで彼の兄が、機械化が進むアメリカへ行き学ぼうと誘ったのです。

最初は嫌がっていたものの、日に日にアメリカへの思いが強くなり結果、16歳の若さで兄と共にアメリカへ渡りました。

 

初めはボストン、そしてカリフォルニアへ渡りアメリカの技術を吸収。

そしてサンタバーバラに着いた時、彼はこの地で再び靴屋を開業するのです。

 

 

 

●アメリカでも大成功!野心を秘めイタリアへ!


 

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アメリカの地で開業したサルヴァトーレ・フェラガモは、ハリウッド俳優らを中心に顧客を拡大していきました。

というのも、ハリウッド俳優が使用する衣装の靴を生産したところ、好評判であり、次から次へと俳優のお客様が増えたわけです。

 

また、彼はさらに自分が生み出す靴を完璧に仕上げるため、南カリフォルニア大学で解剖学を学び、学んだ知識を靴造りに活かしていきました。

 

アメリカでも順風満帆な生活を送っていた彼は、約13年間滞在していましたが、故郷のイタリアへ戻ることを決意しました。

そこには、アメリカで学んだ機械式生産も確かに良いですが、やはり手作りにこだわりたかったのかもしれません。

 

 

 

●1927年サルヴァトーレ・フェラガモ誕生!待ち受けていたのは厳しい現実?


 

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サルヴァトーレ・フェラガモがイタリアへ凱旋することは、地元で大きな話題になりました。

 

ですが、アメリカで成功したようにはいきませんでした。

というのも、彼に下記の事態が発生したからです。

 

・開業しようにも職人が集まらない。なんとか集めた職人も、彼のやり方に満足せず独自の靴を作る、またはお金だけもらって消えてしまった。

・開業したのも束の間、契約が全然取れず途方に暮れる。しかし「サックス・フィフス・アベニュー」「マーシャル・フィールド」のアメリカ大手2社と契約成立。

・カリフォルニアに残してきた会社が運転していなかった。後に彼が直接本社へ赴き出資者たちを説得し、窮地を脱した。

 

その他にも、後に自分に従わない職人を全てリストラさせ靴職人を目指す少年や学生を集める苦肉の策まで行ったのです。

また、アメリカに留まらず販路を拡大しイギリスやフランス、オランダ等々、輸出を中心に行うことで更なる発展を遂げていきました。

 

 

 

●サルヴァトーレ・フェラガモ倒産!


 

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イタリアの凱旋後、様々な事態が彼を悩ませましたが1927年~29年、サルヴァトーレ・フェラガモは順調に販売を伸ばしていました。

 

しかし、1929年に入ると歴史上最大の悲劇が待ち受けていました。

それは「世界恐慌」です。

アメリカ ニューヨークを震源に、世界中へ恐慌の波が押し寄せ、ドルやポンドといった主要通貨が軒並み下落。

輸出に頼っていた彼もまた、大きなダメージを受け、徐々に衰退していきました。

 

その結果、1933年、借金を返済できずサルヴァトーレ・フェラガモは、倒産しました。

 

 

 

●倒産後のサルヴァトーレ・フェラガモは別人?


 

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倒産して間もなく、サルヴァトーレ・フェラガモは今までのビジネススタイルを180度変更し、再びお客様目線で靴造りをスタートしました。

なんと、倒産して2~3日後には、昔イタリア国内でひいきにしていただいた貴族、富裕層の家へ直接赴き、靴作りの提案やオーダーメードを勧めたのです。

 

また、国内で販売していなかったことを見直し、国内販売にも注力しつつ、輸出先も再び探し始め、寝る間を惜しみサルヴァトーレ・フェラガモの再建に尽力しました。

結果、倒産して5年後には軌道に乗り、イタリア国内に留まらず世界中で愛されるブランドへと成長したのです。

 

そして1950年代に突入すると、今まで嫌っていた機械化を進め始め、手作業×機械化により効率性と技術力を損なわない靴造りを確立しました。

 

 

 

●サルヴァトーレ・フェラガモは今もなお愛されるブランド


 

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サルヴァトーレ・フェラガモ氏が1960年代にこの世を去ると、ブランドが傾くのではと思われていました。

しかし、そんな心配はなく、彼の奥様、そして子供たちが彼の意思を引継ぎブランドを継続したのです。

 

今まで販売してきた各シューズはもちろんのこと、これより紹介するように奥様・子供達は活動していきました。

 

・奥様(ワンダ):サルヴァトーレ・フェラガモより、経営のイロハを学び、彼亡き後のブランドを支える。

・長女(フィアンマ):1965年にハンドバッグコレクションを展開。特に「ヴァラ」は現在も愛されるバッグです。

・次男(レオナルド):メンズファッション&シューズの拡大

・三女(フルヴィア):今もなお、ブランドを代表するタイやシルクスカーフを成長させる。

 

この他にも書ききれないほど、彼亡き後の奥様・子供たちの活躍は素晴らしいものでした。

彼・彼女達の力がなければ、もしかしたらブランドが消滅していたかもしれません。

 

 

 

●サルヴァトーレ・フェラガモを代表するシューズとは?


 サルヴァトーレ・フェラガモには数々の逸品シューズが揃っていますが、ある2つの靴が代表にふさわしいでしょう。

それは「ウェッジ・ヒール」、そして「見えない靴」この2つです。

 

ウェッジ・ヒールとは、つま先を低くしかかと部分を高くしているソールであり、ハイヒールのような見た目ながら履き心地は抜群!

確かに、つま先・かかとに高低差はあるものの、ソールに使用される特殊な素材により靴に対する不快感を全く与えません。

 

次に1947年に発表された「見えない靴」です。

これは透明なナイロン糸を利用しており、縫製した箇所を見せない工夫が施されています。

 

もちろん、他にもサルヴァトーレ・フェラガモには素晴らしいシューズが揃っていますので、是非、実物をみることをおすすめします。

 

 

 

●まとめ


 

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最後になりますが、サルヴァトーレ・フェラガモシューズの歴史は山あり谷ありの険しい人生かと思います。

しかし、その経験があったからこそ、現在も愛されるシューズを販売しているのです。

 

皆さんも、サルヴァトーレ・フェラガモシューズを体感し、その魅力に大いにはまってみてはいかがでしょうか。

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